歴史・沿革

鷲霊山 釈迦尊寺

五八七年
三十一代用明天皇二年蘇我馬子が、物部守屋を滅ぼしたとき物部氏に加担した中臣羽鳥連と妻、玉照姫は上毛野国青海に流罪となる。玉照姫は聖徳太子の乳母にて、太子の守仏、闇浮壇金一寸八分の釈迦尊仏を、太子より授けられる。
六八六年
天武天皇十五年勅令により大赦が行われ羽鳥連の孫羊太夫が、上洛して勅赦を受ける。そのとき定慧和尚が玉照姫の敬信した釈迦尊仏の由来を尊信し翌年(六七八年)上野国蒼海に御下りになり、七堂伽藍を建立、釈迦尊仏を安置して釈迦尊寺と号し、持統天皇即位亥年朱鳥一年青海羊太夫の開基、開山は多武峯定慧和尚と言われている。初めは法相宗に属し数百年繁栄を極めたが、寿永の頃天下大いに乱れ寺門も衰退した。二八二年(八一〇年前)
一二六四~一二七四年
文永年間臨済宗門、鎌倉建長寺より蘭渓和尚が来て再興する。
一五五八年(四三四年前)
永禄元年戌年、永源寺より芳伝和尚が来て、諸堂の修理を行い大いに面目一新し、曹洞宗となる。
一五六三年(四二九年前)
永禄六年甲州勢の兵火により釈迦尊寺七堂伽藍地面高三百六十石余り残らず焼失のため末寺、竜松寺に引移り現在に至るが、その後、宝歴十年の火災で焼失再建するも明治四年の大火で類焼同年仮本堂を建立、昭和八年十一月現在の本堂を新築して今日の及んでいる。
一六二六年(三六六年前)
領主、秋元伹馬守長朝殿、御泰達のうえ幕府二代様より寛永三年四月十七日、釈迦尊寺旧跡七堂伽藍の地面高三百六十石余御朱印になる。

玉照姫

今から1400年前頃、仏教の信仰にからんだ権力争いが会った。仏教派の曽我馬子は聖徳太子と共に反対する物部守屋を破り、権力を握った。物部氏の中に中臣羽鳥の連という人物がいた。その妻が玉照姫である。玉照姫は、聖徳太子の乳母にて羽鳥連は一命を免れ上野国に流された。その後、大赦があり羽鳥連も恩赦の対象となり、孫の羊太夫が代わりに都に上がって、詔を受けてきた。羊太夫は、都から招いた定恵和尚とともに、玉照姫が聖徳太子から賜った釈迦牟尼仏を祀った寺を造った。これが釈迦尊寺である。

宗派は、戦国時代末期より曹洞宗となり現在四十四世に至っている。「上毛伝説雑記」の著者である泰亮(愚海)和尚は、第十二世住職となっている。
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